未発表な宝物 ----谷川俊太郎『ミライノコドモ』
去年の夏だっただろうか、雑談のなかで谷川さんに訊ねたことがあった。「注文じゃない詩、書いてます?」たしか以前にも、あるインタビューのなかで、同じような質問をしたことがあった。「地球で最後の一人の人間になったとしても、詩を書き続けると思いますか?」
そのときの答は「今だったら書くような気がする」だった。つまり昔だったら、頼まれもしないのに自分から詩を書くことはなかったということか。今でも「気がする」だけで、確かなことではないらしい。大詩人は詩に対して奥ゆかしいのか、それともただの面倒臭がり屋なのか。
果たして今回の答は留保なしの「書いてる」だった。さらにこうも続く。「詩を書いているときが、やっぱり一番楽しいんだよね」
これまで詩は谷川さんが大好きだったようだが、谷川さんは詩に対して時につれなかった。自分は言葉ってものを疑っていると言い放ったり、「詩は滑稽だ」とか「ついでに詩も消えてくれぬものか」と辛く当たったりした。そうして実際何年もの間、詩から遠ざかったことすらあった。一体谷川さんに何が起こったのだろう?
でも正直なところ、僕はその答に驚かなかった。むしろ予期した上で、それを確かめるために訊いたところもあったのだ。
相変わらず言葉を疑いながらも、谷川さんは詩に優しくなっている。巷に氾濫する饒舌から人
を「デトックス」させる詩の力を信じ、ときにはその力に甘えてみたりもしているようだ。注文の詩の受け渡しに伴う実務も含めて、世間との関わりの齎すストレスからの避難港としての詩。誰にも邪魔されることのない「ひとり遊び」の悦び。その魅力が最近の谷川さんのなかで強まっているのが分かる。
もう60年以上も書き続けてきた詩というものを、飽きるどころか、今もなおそれ自体の悦びのためだけに書いている谷川さんの姿を想像すると、僕は自分まで嬉しくなってしまう。それにしても、一体どんな詩を書いているのだろう?
詩集『ミライノコドモ』にはその答が詰まっている。 収録されている26の詩のうち10篇が「未発表」とされているが、既に発表された詩のなかにも、「ひとり遊び」の詩があるようだ。
あのひとのすすり泣きは海を渡り/荒れ地を横切り国境を越えて私に届いた (「時」)
心に渦巻く沈黙を封印して/私は何を待っていたのだろう ルネと (「ルネ」)
夜になった/心々に眠るしかないのか/瓦礫の上で (「よそ者」)
詩の中で記憶と現在が混ざり合っている。感情が物語へと転ずるぎりぎりのところで堰き止められて、光沢を帯びた質感を放っている。言葉そのものは相変わらず明晰極りないのに、テキストの多義性は増し、謎が深まる。時にはぞっとするような現実への違和感を伴って。
不気味な女がいる/不気味な女は三丁目に住んでいて/大きな犬を散歩させている/ケヤキの木が風に揺れている (〈終わり〉のある詩)
だがその不気味さを読むことの、なんという明るい喜びだろう。これらの作品は、僕にパウル・クレーの絵画を想起させる。谷川さんには『クレーの天使』という詩集があるが、それよりももっとクレー独特のあの覚醒夢的な感覚を備えているように思える。
谷川さんの詩は基本的にどれもそうだが、とりわけこの詩集は屋外で読むことをお勧めしたい。電車のなかでとか、カフェの窓際だとか。一篇読むごとに目の前の風景が少しずつ変容してゆくのが分かるだろう。iPadよりも軽いから腕も疲れないし、地味な外箱に開けられた四角い窓から白地に銀のタイトルが覗いているのも素敵です。 (2013年6月刊 岩波書店)
未発表な宝物 ----谷川俊太郎『ミライノコドモ』
去年の夏だっただろうか、雑談のなかで谷川さんに訊ねたことがあった。「注文じゃない詩、書いてます?」たしか以前にも、あるインタビューのなかで、同じような質問をしたことがあった。「地球で最後の一人の人間になったとしても、詩を書き続けると思いますか?」
そのときの答は「今だったら書くような気がする」だった。つまり昔だったら、頼まれもしないのに自分から詩を書くことはなかったということか。今でも「気がする」だけで、確かなことではないらしい。大詩人は詩に対して奥ゆかしいのか、それともただの面倒臭がり屋なのか。
果たして今回の答は留保なしの「書いてる」だった。さらにこうも続く。「詩を書いているときが、やっぱり一番楽しいんだよね」
これまで詩は谷川さんが大好きだったようだが、谷川さんは詩に対して時につれなかった。自分は言葉ってものを疑っていると言い放ったり、「詩は滑稽だ」とか「ついでに詩も消えてくれぬものか」と辛く当たったりした。そうして実際何年もの間、詩から遠ざかったことすらあった。一体谷川さんに何が起こったのだろう?
でも正直なところ、僕はその答に驚かなかった。むしろ予期した上で、それを確かめるために訊いたところもあったのだ。
相変わらず言葉を疑いながらも、谷川さんは詩に優しくなっている。巷に氾濫する饒舌から人
を「デトックス」させる詩の力を信じ、ときにはその力に甘えてみたりもしているようだ。注文の詩の受け渡しに伴う実務も含めて、世間との関わりの齎すストレスからの避難港としての詩。誰にも邪魔されることのない「ひとり遊び」の悦び。その魅力が最近の谷川さんのなかで強まっているのが分かる。
もう60年以上も書き続けてきた詩というものを、飽きるどころか、今もなおそれ自体の悦びのためだけに書いている谷川さんの姿を想像すると、僕は自分まで嬉しくなってしまう。それにしても、一体どんな詩を書いているのだろう?
詩集『ミライノコドモ』にはその答が詰まっている。 収録されている26の詩のうち10篇が「未発表」とされているが、既に発表された詩のなかにも、「ひとり遊び」の詩があるようだ。
あのひとのすすり泣きは海を渡り/荒れ地を横切り国境を越えて私に届いた (「時」)
心に渦巻く沈黙を封印して/私は何を待っていたのだろう ルネと (「ルネ」)
夜になった/心々に眠るしかないのか/瓦礫の上で (「よそ者」)
詩の中で記憶と現在が混ざり合っている。感情が物語へと転ずるぎりぎりのところで堰き止められて、光沢を帯びた質感を放っている。言葉そのものは相変わらず明晰極りないのに、テキストの多義性は増し、謎が深まる。時にはぞっとするような現実への違和感を伴って。
不気味な女がいる/不気味な女は三丁目に住んでいて/大きな犬を散歩させている/ケヤキの木が風に揺れている (〈終わり〉のある詩)
だがその不気味さを読むことの、なんという明るい喜びだろう。これらの作品は、僕にパウル・クレーの絵画を想起させる。谷川さんには『クレーの天使』という詩集があるが、それよりももっとクレー独特のあの覚醒夢的な感覚を備えているように思える。
谷川さんの詩は基本的にどれもそうだが、とりわけこの詩集は屋外で読むことをお勧めしたい。電車のなかでとか、カフェの窓際だとか。一篇読むごとに目の前の風景が少しずつ変容してゆくのが分かるだろう。iPadよりも軽いから腕も疲れないし、地味な外箱に開けられた四角い窓から白地に銀のタイトルが覗いているのも素敵です。 (2013年6月刊 岩波書店)
これもまた同じような症状ですが、