ちょっと立ち止まって
桑原茂夫
自分ではAだと思っていたものが、人からBともいえると指摘され、なるほどそうもいえると教えられた経験は多いことだろう。
上の図は「ルビンのつぼ」と題されたものである。よく見ると、この図から二種類の絵を見てとることができるはずだ。白い部分を中心に見ると、優勝カップのような形をしたつぼがくっきりと浮かび上がる。このとき、黒い部分はバックにすぎない。今度は逆に、黒い部分に注目してみる。すると、向き合っている二人の顔の影絵が見えてきて、白い部分はバックになってしまう。
この図の場合、つぼを中心に見ているときは、見えているはずの二人の顔が見えなくなり、二人の顔を中心に見ると、一瞬のうちに、目からつぼの絵が消え去ってしまう。
このようなことは、日常生活の中でもよく経験する。今、公園の池に架かっている橋の辺りに目を向けているとしよう。すると、橋の向こうから一人の少女がやって来る。目はその少女に引きつけられる。このとき、橋や池など周辺のものは全て、単なる背景になってしまう。カメラでいえば、あっという間に、ピントが少女に合わせられてしまうのである。ところが逆に、その橋の形が珍しく、それに注目しているときは、その上を通る人などは背景になってしまう。
見るという働きには、思いがけない一面がある。一瞬のうちに、中心に見るものを決めたり、それを変えたりすることができるのである。
上の図の場合はどうであろうか。ちょっとすまして図の奥の方を向いた若い女性の絵と見る人もいれば、毛皮のコートにあごをうずめたおばあさんの絵と見る人もいるだろう。あるいは、他の絵と見る人もいるかもしれない。
だれでも、ひと目見て即座に、何かの絵と見ているはずだが、そうすると、別の絵と見ることは難しい。若い女性の絵だと思った人には、おばあさんの絵は簡単には見えてこない。おばあさんの絵と見るためには、とりあえず、今見えている若い女性の絵を意識して捨て去らなければならない。
左の図を見てみよう。化粧台の前に座っている女性の絵が見えるであろう。ところがこの図も、もう一つの絵を隠しもっている。目を遠ざけてみよう。すると、たちまちのうちに、この図はどくろを描いた絵に変わってしまう。同じ図でも、近くから見るか遠くから見るかによって、全く違う絵として受け取られるのである。
このことは、なにも絵に限ったことではない。遠くから見れば秀麗な富士山も、近づくにつれて、岩石の露出した荒々しい姿に変わる。また、遠くから見ればきれいなビルも、近づいて見ると、ひび割れてすすけた壁面のビルだったりする。
私たちは、ひと目見たときの印象にしばられ、一面のみをとらえて、その物の全てを知ったように思いがちである。しかし、一つの図でも風景でも、見方によって見えてくるものが違う。そこで、物を見るときには、ちょっと立ち止まって、他の見方を試してみてはどうだろうか。中心に見るものを変えたり、見るときの距離を変えたりすれば、その物の他の面に気づき、新しい発見の驚きや喜びを味わうことができるだろう。